#37.明日エバー見に行く

 これは見に行くに当たって事前の推測がどこまで当たっていたかを確認するための考察です。そんなにガッツリ既存の考察を見てはいないので悪しからず。


「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」


この文字を生きてるうちに見れるとは思いませんでした。

厳密には新劇場版でも結局完結しないと思ってましたし、コンテンツとしての「終点」を示唆することがあるとも思っていなかったです。旧劇場版で終わらず、メディアミックスの弊害ではないですがコミック版の存在があったのでコンテンツとして「ここでおしまい!」っていう線引きができずにいたわけですから。


ともあれ先にシン・エヴァンゲリオンを見てきた友人らは形はどうあれ「終わった」と言っているので一応の完結となったようです。そこで「今作にてエヴァンゲリオンというコンテンツは一つの『終点』にたどり着いた」という前提で事前予想をしてみようと思います。


先に注意書きをしておきますが私はそこまでこの作品に思い入れはない方なので、キャラクターの心理描写や細かい設定(特に使徒や槍に関する部分)にはほぼ興味がありません。言ってしまえば傍観者ともいえる視点で見ています。これを不快に思うようであれば読まないことをお勧めします。


その他に下記の条件にて進めます。

・履修済みはTV版、旧劇場版、新劇場版のみ

・TV版、旧劇場版はうろ覚え

・コミック版は未履修(最終巻のマキの件は知ってる)

・聖書に関わる内容の予習はしていない

・よって基本的にメタ的考察を主とする


■「さらば、全てのエヴァンゲリオン」の文字通りの解釈■

今回の考察は

このキャッチコピーを作中の視点で文字通りに解釈するならば「何かしらの結果、作中に登場する汎用人型決戦兵器としてのエヴァが全て消失する」と考えられます。LCLの海に帰るのか天に召されるのかは分かりませんが、このような打ち出し方をした以上話の終わりに1機たりともエヴァは残らないと思われます。(というか少なくとも初号機が残ってるとユイとゲンドウの話が未消化になっちゃうし…)

もちろん物語の推察としてはココが重要ですし私自身明日劇場に足を運ぶのは楽しみなんですが、幾らココを考えてもコンテンツそのものの終結に辿りつけない(その考察の一つの根拠にはなり得るが…)ので別の視点で考えます。


■「全てのエヴァンゲリオン」拡大解釈■

先に示した作中の「エヴァ全機」ではなく、作品としての「エヴァ全作」と考えるのが妥当…というか庵野監督からのメッセージとして読むなら当然こうなるんですが、TV版、旧劇場版、コミック版、新劇場版そしてシン・エヴァンゲリオンの全てにお別れできるという話なってはず。というものです。

ただ、ここで問題となってくるのがこれら全てのエヴァでオチが違うということです。百歩譲って「旧劇場版はTV版の補完だ」としてもコミック版の存在がありますし、それにしたってTV版ラストの説明ができてるかというと…ですし。

全てとさらばできるというならば、全てのエンドを肯定でき、なおかつ相互に否定しないことが求められてきます。例えば今作の終わり方だと旧劇場版は肯定されるがTV版のラストは有り得ない。だとか。コミック版はメディアミックスの一端を担ったがTV版から続く映像作品のシリーズとは別枠である。ということは許容できないはずです。

25年かけた結果としてどこか割り切りがないと納得できない、という程度のモノで公開されるとは到底思えませんし現状でもネタバレがないあたり一定以上の納得が得られる形であったのは間違いないでしょう。


■全てを包括できるエンドを考える■

もうこの時点で結論は出てしまうのですが今作を終点(或いは全ての始点)として並行世界かループが展開されていた…という話です。これは新劇場版が4部+1部構成として企画され、+1にあたるのがシン・エヴァンゲリオンの予定であったという話が出た時点で結構考察されています。加えて今作タイトル末尾の「:||」は楽譜の反復記号(のリピート終点)であることからもそう囁かれていました。(D.C.じゃいかんのか?というのは無粋です)

シンジが第三新東京市に来てからサードインパクト発生までを繰り返している。そして今作ではその枠から先に進んでサードインパクト後、世界がどうなったのかがハッキリする。逆に言えばサードインパクトが何だったのかが分かるハズです。

またカヲルが月面のシーンだったで「また」と言ったことに対する説明にもなります。また、彼のシンジに対するクソデカ感情の説明も今作で付くんじゃないかと思っています。

どうでもいい話ですがこの説が正しければシンジがとばっちりで殴られるのも、弐号機が喰われるかするのも、ネルフが壊滅するのもある種の「時報」ですね。


■なぜ包括する必要があるか■

作者自身が「これでおしまい!」と言う責任がある…というか普通は完結させますよね。これはこれで大切なことなんですが、話として完結してもまた「続編をやろう」だとか「後日談(前日談)を追加しよう」と言って金儲けを始めるのが世の常ですから、作者自身がキッチリ「終わった」と宣言した上で作品の終着点を明示する必要があります。これが無いとそう遠くない未来に過去作と矛盾するか全く新しい話が「正史」として打ち立てられれてしまうからです。

他の作品でいうとガンダムはある程度失敗していて、初代で終わりの予定が続編作成が決定しちゃったり、模型雑誌との絡みで知らん話が増えちゃったりしてエラいことになってしまいました。(全く映像にならない作品があったりする)

こういうことにならないように明確に「全てのエヴァンゲリオンの結末はこれである」として、これより過去或いは未来の全ての作品を紐づける必要があります。

ガンダムの富野監督は一度シリーズから離れてから∀ガンダムを全ての作品の最後に置きましたが、25年も手放さなかった(なんなら権利関係のゴタゴタがあった)庵野監督が付け入る余地を残すとは到底考えられません。


■じゃあ旧劇場版で完結は出来なかったのか■

たぶん、やろうと思ったらできたんじゃないですかね。ラストにまた初めから物語が始まるようなシーンを挟んでしまえば「そこからTV版に向かう」とも「TV版の後にここに来た」ともとれるわけですから。まぁ製作陣が広げたクソデカ風呂敷を畳む様を見物するコンテンツと言えなくもないのでそりゃそうなんですが、世の中ライターが逃げたり、視聴率の問題で打ち切りなんてことは挙げればキリがありません。TV版はともかくとして旧劇場版で一応の完結を迎えることは仕事上可能なのは間違いありません。

加えてコミック版の存在があるので初期の段階から何処へ向かえばいいのかがハッキリしていないと、そういう展開は出来ないはずなんです。そして現に「全ての」として包括しているのだと考えます。


■終わりに■

まぁ、この考察が私自身がループモノが好きってのが大きいです。そのせいで余計にそうじゃないと辻褄合わないだろ!ってなっちゃってます。ありえそうなのはゲンドウの計画を何度もユイが拒否してるとか、一度目のループを経てカヲルが生まれて彼が主体として物語が進んでいたとかが面白そうかなと。シンジの自己肯定感のある部分だけが独立して機嫌取りながらサードインパクトを避けようとしてたとか。

こういこと考えられるのは一度目に試聴するまでなんですよねぇ。なんであれ明日が楽しみです。でもなんだよ150分て、水も飲めないし酒も飲めねぇ。

早くVODに落ちてきてくれねぇかな…

友達と酒飲みながら「行きなさい、シンジ君」とか言ってヤジ飛ばしながら楽しみたい。こればっかりは公開から暫くしないとできないですね。

それじゃあ行ってきます!

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